限界ファッション講座 戦略編

ファッションに興味がない

私は長らくファッションに興味がなかった。貧乏生活が長かったため、あえて興味を持たないように欲望を制御してきた側面もないわけではないが(一般に時間も金もかかるものなので)、そもそもそこまでファッションに興味がない。今も願わくば、永遠にジャージかパジャマで過ごしていたい。

とはいえ都会においてはビジュアルは肩書きのようなもので、それだけでだいぶ印象が異なる。見た目の印象など気にもかけないコミュニティに身を置くのがはっきり言って一番いいのだが、都心部で暮らすにあたっては、毎日通勤電車に揺られ、仕事をこなし、初対面の人と大量に顔を合わせなければならず、そうもいってられない場面が多い。何より不利益が大きい。というのも女性は身だしなみをしっかりしなければならない、という社会圧がそこかしこに存在するので、それに反抗する時点で奇異の目で見られるし、特に男性からの扱いは露骨に雑になるからだ(これはファッションを変更してしみじみ感じた。なお、モテるとかモテないとかそういう次元ではなく、挨拶しても返してもらえないとかエレベーターのボタンを押してもらうようお願いすると嫌そうな顔されるとかその次元である)。

そんな世の中にフ○ックと叫びたい気持ちがないわけでもないが、文句を言っても仕方がない。というわけで、ファッションに興味がない、願わくば関わりたくもないけども、利をとるためにファッション弱者もファッションやっていきましょう。死なない程度に防具を身につけてフィールドに出ましょう。というのが本記事の趣旨です。

なお、内容は女性を想定しています。ファッション以外にメイクや髪型などのハードルが待ち構えていますが、これについては追々。

 

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引っ越しレポ

一週間ほど前に、実家から引っ越しをして一人暮らしを始めた。

 

理由は色々とあるが、そもそもいい歳だし、いい加減親の顔色を伺って暮らすのも何だし、経済的にも一人暮らしも可能となったし、まあいいかなという思いからだ。そんなに深い理由はない。深い理由はないのだけど、ともかく出て行かなければならないと思った。

そしてもし出て行くならば折角なのでエデン界隈周辺がいい、と思い、その近辺に引っ越しを決めた。えらてんさんにご紹介いただいた不動産屋さんは大変親切な方で、良い物件を見つけていただいた。日当たり良好、バルコニーは広く、カウンターキッチンもついている洒落た部屋だ。そして大家さんの趣味で餌付けされている鳩がうろついている。しかし不思議なことに、敷地内に鳩のフンがほとんど見当たらない。どういうことなのかはいまだにわかっていないが、今のところ新居に不満はない。

 

引越しはピックアップさんにお願いした。引越しの日はよく晴れていた。

ピックアップの店主さんは軽トラに手早く荷物を積み込み、軽快に私共々新居に運んでくれた。奴隷労働(大学時代の部活)していた時にはよく軽トラを乗り回していたこともあり、私はあのフロントガラスが迫って来るような軽トラの座席を結構好んでいる。ずっと店主さんの面白い話を聴きながらしゃべり続ける楽しい引越しだった。

ついでにピックアップの店舗にある冷蔵庫をもらいに行った。店内はカオスもカオスといったところで、奥は暗く、足元には謎の瓶が転がり、表には布団がだらりと垂れ下がっている。私は中に入り込むことができずに立ち尽くしてしまったが、冷蔵庫をいただくことには成功した。冷蔵庫の中はやや混沌としていたものの、綺麗に掃除したら普通に使えたのでよかった。ついでにエデンハウスで使わなくなったという電子レンジもいただいた。ありがたい。

 

上記のもの以外で新生活に必要なものを何も買い揃えていない、とツイッターで呟いたら、とりあえず何もなしで生活を始めてみましょうとえらてんさんに言われたため、その通りにした。これは結論から言うと大正解で、寸法を測りつつ、インテリアを考えながらさまざまなものを買い足して行くのは楽しい作業となっている。急いで変なものや寸法の合わないものを買わなくてよかった。ただし気に入ったものを気分で買っていくスタンスのため、昨日までタッパーで食事をしていたし、いまだに洗濯機はない。近場にコインランドリーがあるため問題ないのだが、洗濯はもうすこしマメにしたい(自分で思っていたよりも洗濯が好きなようだ)。

またてんつまさんにマットレスや収納グッズ等をいただいたり、つとさんに運んでいただいたりと、さっそく界隈の方々のご好意やお力添えに甘えさせていただくことになり、ありがたさとともに改めて移民してきたことを実感した。

とはいえ、細々した生活用品は自分で買い揃える必要がある。毎日大量の物資を仕事終わりに買い込んでいたら、左の腰が崩壊しかかけた。もともと右足の靭帯を断裂して手術した影響で、左右の足の長さが微妙に異なる。さらに土踏まずが異様に少ない変な足のため、体のバランスが悪く、負荷は左の腰に行くというわけだ。現在、湿布を貼っている。近所に良い銭湯があると聞いたので、今度行ってみようか。あと100均とスリーコインズは神。

 

池袋はいい街だと思う。ずっと新宿圏で暮らしていたので、なんとなく池袋は近寄りがたく思っていたのだけども、住んで一週間で池袋派に転向した。池袋のいいところは、割とすぐに住宅街のエリアに辿り着くことだ。新宿ほど街の規模が大きくない。新宿はどこまでも繁華街が続くようで、どこにでもいけるけども、どこにも居場所がない恐怖感がある。その点、池袋はさまざまな隙間があり、ビルも高すぎない。とても住みやすい。平場が多いので自転車の移動も快適だ。

 

部屋が片付いたら人を呼びたい。いい部屋なのだ。来週には実家にいるインコも来る予定だ。インコも新居を気に入ってくれるといいのだけども。

肌荒れ

生まれてこのかた肌が弱い。肌が薄いのだと思う。手も足も、青い血管がよく透けて見える。

子供の頃は体が弱かったが、特にひどかったのがアトピーだった。ともかく体のあちこちが痒くなる。こっちだって好きで痒いわけではないのに、親にかいてはいけないとよく怒られ、混乱していた。

とはいえ、幸いにも20歳を超えるあたりから症状は治り始め、体のかゆみというものはほとんどなくなった。しかし代わりに、定期的に顔が肌荒れを起こすようになった。特に季節の変わり目は発汗がうまくいかないからか、非常に荒れやすくなる。

とりわけひどかったのが数年前の春で、就職に伴う環境の変化やプライベートのストレスが積み重なり、顔全体が鱗のようになってひっきりなしに皮がむけ、ボロボロ崩れ、鱗になってを繰り返すようになった。顔もパンパンに腫れて、赤黒くなっていた。この状態が4月から6月くらいまで続いていたと思う。

幸いにも(?)自分の顔面にそこまで重きをおいていなかったので、まあしんどいのは嫌だけど、そのうち治るだろうとは思っていた。が、母親が過剰に心配し、なんだかよくわからないネズミ講が絡んでいるようなアロエの何かを塗ったり、勝手に写真をとってそのネズミ講仲間に写真を回したり、しかもそのネズミ講に洗脳されていたのか知らないが、医者に行くのを止められた。最終的にキレて医者に行ってステロイド薬を併用するようになり、ようやく治った。

まあ、ステロイドはリスクがあるのはアトピー持ちであったこともありなんとなく知っているので、母がなんだかよくわからないものにすがりつきたくなる気持ちもわからないでもない。親心もあるのだろう。しかしかわいそうなもの扱いされるのがともかくうっとおしかったし、私を実験台にしてネズミ講の効果を確かめようという節があったのも癪に触った。

なんだか嫌なことを思い出してしまった。今年も若干肌荒れの徴候が見えたが、対処が早かったのでなんとか乗り切れそうだ。季節の変わり目、なるたけ体に気をつけて過ごしていきたい。

春雨

私は比較的幼少期の記憶が残っており、自我が目覚めた瞬間についても記憶している(エピソード的にはたいへんどうでもいいことなので省略する)。

死という概念を初めて理解した時のことも覚えている。父方の祖父が亡くなったときのことだ。
父方の祖父は家が離れていることもあり、1年に1回会えればいい方だったが、大柄で優しく、孫が来るたびにうれしそうにおもちゃを買ってくれたことを覚えている。


小学校低学年のころ、その祖父が亡くなった。母が子供達をワゴン車に乗せて父の実家に向かったらしいが、その経緯についてはよく覚えていない。しかし棺に横たわる祖父の姿は覚えている。棺の中の祖父は祖父の形を模した人形のようで、いまいち祖父が亡くなった、ということをうまく理解できなかった。
その祖父の棺に、親族が次々と祖父の身近なものを入れていく。私もそれを手伝ったが、その中に春雨があった。市販されている、大袋入りの春雨だ。私は祖父が春雨好きであるとは聞いたことがなく、また葬儀の際に棺に春雨を入れる慣習があるのかどうかも知らなかった (今も分からない)。私は春雨を抱えながら、隣にいた父に、何故春雨を入れるのかを聞こうと思い、顔を上げた。
父は声もなく、遠くを見つめて泣いていた。父が泣いているのを見るのはそれが初めてだった。私は結局、春雨を入れる理由を聞くことができなかった。

 

のちに母に春雨のことを話したが、「春雨なんかあった?」と要領を得ない回答だった。もしかしたらこうした私の記憶は勘違いで、私は祖父の棺に春雨を入れなかったのかもしれない、ともたまに思う。しかしやはり春雨は祖父に連れ添って火葬されたように思うし、声もあげずに遠くを見て泣く父に、春雨の理由を聞けなかったことが人の死なのだと、今も理解している。

投げ銭とギブアンドテイク

最近の趣味はエデン界隈の人達のポルカ投げ銭することにになりつつある。

ポルカの本来の用途はイマイチわからないのだけど、おそらく何かしかのイベントを行うための小規模なクラウドファンディングを目的に作られたシステムだと思う。とはいえ、エデン界隈ではイベント以外の私的な活動のためにポルカを募る場合が多いのだけど、みかけたら出来るだけ投げ銭をするようにしている。貧乏生活が長く意地汚い私は、はじめ300円くらいでも抵抗があったのだけど、今は何も考えないでポイと投げられるようになった。

はじめは単にえらいてんちょうさん(@eraitencho)のまねをしているだけだったのだが、改めて考えてみると、私は昔から「喜捨」という行為に憧れがあったように思う。(これが喜捨なのかは謎だけども、気分的にはそう思っている)

 

喜捨を初めて知ったのは、子供の頃に見た百科事典の一枚の写真だ。誰かの帽子の中にみんなが寄って集って金を押し込む、という構図の写真だった。みんな何だかとても楽しそうな顔をしていたのが妙に記憶に残った。なんでこの人たちはお金を捨てているのに楽しそうなのか聞いてみたかったが、私の身近にはそうした人達を見たことがない。私の知らない、遠い国の人たちだった。(ちなみに私がこの百科事典で覚えているのは、この喜捨の写真と、戦争、妖怪、蛾の項目だけだ)

私にも個人的に投げ銭をする機会は何度もあった。都心部をウロウロしていると、物乞いしている人をまれに見かける。私が彼らに何もできなかったのは、何故か気恥ずかしさみたいなもののほうが優ってしまうからだ。可哀想で哀れむ対象だから施しをしている、みたいな感じが、なんだか偉そうで。しかしネットだとワンクリックで投げられるし、そもそもエデン界隈ではみんな気軽に楽しそうに投げ銭をしているので、私も心置きなく投げ銭ができる。楽しそうでないと、なかなか投げ銭も難しい。

 

で、ずっと投げ銭(気分的には喜捨)を続けていたんだけど、色々気づいたことがある。

まず、全く施しという気分にはならないということだ。寄付とか募金とかは少なからず善意というか、「いいことしたなあ」という気分が湧いてくるんだけど、別に湧いてこない。ただ私が現状人より少しお金を持っていているようなので、他に欲しい人に多少渡す、というだけだ。徳みたいなものがピローンと上がるかなあと期待したものの、別に上がっていないと思う。

 この理由を暫く考えていたんだけど、要するに、自分の隣人が自分よりモノを持っておらず、欲しいといっているのであれば、その人に自分のモノをスライドさせるのは、同じ価値同士のモノを交換するのと同じくらい当たり前のことだ、ということはないだろうか。そういう仮説が浮かんだ。

 

突然だが、私が知人から聞いた、イスラーム共同体が強く残る地域の調査をしていた人の話をしよう。現地の子供がその調査を行う日本人に対して、ずっとお金をくれとせびってついてくる(もっとも、子供に限らず現地のあらゆる人が金をせびってくるらしい)。あまりにしつこいので、ある日、その人は少し意地悪をして、今日自分はお金がなくて餓死しそう、君のお金をくれないか、という芝居を子供に打ったのである。子供はちょっと悩んだあと、自分の持っていた金を渡した。その人は驚いて、いや貰えないよと言ったけども、子供も譲らない。

普通に考えれば日本人が財力ある立場なのは火を見るよりも明らかだし、子供もそれが何となくわかるから一瞬躊躇したのだろう。でも子供はあげた。お金がなくて困っている、くれないかと言っている人には、その正体が何であろうとあげる。私はそれを聞いて「ほー、教育の成果ってすごいなーえらいなー」とだけ感心したんだけども、曲がりなりに実践してみると、どうも教育に伴う慣習ではなくて、そもそも人と人との関係の捉え方が違うのではないか、という気がしてきた。 

というのも、投げ銭(気分的な喜捨)を繰り返していると、「不足している人に自分のものの一部をあげる」、あるいは「余裕のあるほうが余裕のない方の荷物を背負う」という行為を、目に見える金銭のやり取り以外にも自然と意識するようになってきたのである。たとえば、ちょっと理にかなわない扱いを受けて怒りみたいなのが湧いてきても、「あ、この人私より今いっぱいいっぱいなんだな。じゃあいいや、今日は私が余裕あるから、その「いっぱいいっぱい」をちょっともらっちゃいましょ」と思うようになった。そして怒りもすっと治る。主観的に余裕のあるほうが折れればいい。たとえあなたが何者でも。

 

私は人と人との結びつきは、基本的に交換、ギブアンドテイクしかないと思っていた。だから常にギブしなければ、テイクを受けなければ、結びつきは絶たれる。「お互い様」ができなければ終わりだ。これが家族になると多少の甘えみたいなのが出てきて、執行猶予も許されるらしい。あとは愛だの哀だの気まぐれなお気持ちが発動して、そのたびにお涙頂戴、というわけだ。世界はそういう風に回っていると思っていたので、私は人にプリーズギブミーといえない人間になってしまった。どうにも自分には、何もギブできそうなものがないから。そんなんだからテイクも面倒くさい。モノや金のやり取りならまだしも、目に見えないとなるともうお手上げで、気づいたら色々なものをギブされているらしいが、テイクできないまま床に転がり落ちる。相手は怒る。ギブもテイクもうまくできない私は、自分を薄情か、あるいは、よくない人間か、はたまた何も持ち合わせていない、足りない人間だと思っていた。

しかしどうやらそうではない、と思っていいような気がしてきた。半径1メートル内の隣の人が重そうなものを持っていて、自分に余力があったら少し持ってあげたい。そしてそこに気持ちはなくていい。相手が辛いといっていれば、額面通り受け止める。足りないといっていれば、額面通り受け止める。そして自分の持ち物を確認して、足りない方に足るほうが渡す。それは個人の高尚な取り組みではなくて、ただ、それだけなのだ。ここにはギブアンドテイクもなく、お互い行く道が別れた時も、分け与えたものを回収することもない。その場その場で荷物が重い物の荷物を軽いほうが一部分背負うのだ。当たり前のことで、でもそうすると、きぶんがよくなる。気持ちがどうやら、後からついてくる。

 

私は特定の宗教に属しているわけではないので、こうした心境がその宗教の意図に基づいたものかはわからない。そもそもそうした意図もないような気もする。ただあの写真の人たちは、喜捨をすることで、気分が良くなることを知っていたから、あんなに楽しそうだったんじゃないかと思う。そしてそこには悲壮感や同情もない。そういうコミュニケーションがある気がした。

 

まあそういうわけで、テクノロジーの進化によって半径1メートルが近くなり(意味不明だけどそういうことだ)、私みたいな人でも気軽に投げ銭(気分的には喜捨)ができるようになったので、皆さんやってみてね、というお話でした。おしまい。

 

iPad用のキーボードが来た

書きたいことは色々とある気がするけども、特筆して書くべきことは特にないような気がして早速放置してたけど、iPadのキーボードがやっと届いたのでレビューしてみる。

 

本来は、こっちのキーボードを買う予定だった。

 

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01MS4AD42/ref=oh_aui_detailpage_o05_s00?ie=UTF8&psc=1

 

配送業者をよく見ずに注文してしまったこともあり、届くのがiPad本体入手後の二週間後とだいぶ遅れてしまうことになった。後悔したが、まあ気長に待つかと到着予定日を待ちわびる。 

が、到着予定日が来ても届かない。ので、発送先に連絡したところ、「リコールになったので送れない、ブラックならすぐに送れる」と言われた。リコールなのに色違いの同じ型のものを販売するってどういうことなんだ…

とよく分からなくなったので、キャンセル。

 

代わりにやや値段が上がってしまうが、こちらを購入した。

 

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B073TRMG8T/ref=oh_aui_detailpage_o00_s00?ie=UTF8&psc=1

 

一応立て置きできるのが魅力らしい。

 

 

で、届いた。

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 写真の撮り方が絶望的に下手なので、これ以上は撮りたくない。

この丸い穴からiPadのリンゴが見えるというオシャレ仕様だが、実際に入れてみると若干リンゴがずれる。キーボードは磁石でくっついているので、使うときは磁石からひっぺがして手前にずらす必要がある。

 

次にBluetoothに接続。こちらはスムーズにできた。

さらにタイピング。感触は軽くてチャチな感じもするが悪くない。ただキーボードを使う上で次の二点が気になった。

 

①ショートカットキーが使えない

ただこれは私が普段使っているWindowsの仕様とAppleの仕様の違いなのか、このキーボードの問題なのか分からない。アンドゥができないのは地味に辛い。

②delete key使えない、日本語・英語の変換を行う時にfunction keyを押す必要がある

私は結構デリートキーを使うので不便。また変換のチェンジもfunction keyを押しながらスペースを押すという謎仕様である。

 

以上二点、地味に不便なところがあるが、元々のキーボードのスペースが少ないから致し方ないのかもしれない。

あと一応ケースになるけど、そこまで重くはない。と思う。ただ材質がダンボールっぽい安っぽさなので、そこまで防御力は期待できない。落としたらやばそうなので、基本外出させない方針で使っていきたい。

ブログ開始

これまでブログが長く続いた試しがない。何度かトライしたことはあったけども、どれも途中で辞めてしまった。

何を書けばいいのか分からない。たいしたコンテンツ性のあるものを自分はもっていないし、飽き性だから趣味も続かない。自分のことを書こうとすると、自意識の塊をはき出したような文章しか書けない。日常を切り取って書いてみても、何故か非常にシュールで不格好な、恥ずかしいものになってしまう。

とはいえタイムラインを見ると皆さん思っていたより自由闊達に書いているし、私が自意識過剰なだけもする。テーマがない以上、ためになる話は特にできない非常に私的なブログになると思われるけども、とりあえずはじめてみたい。

のべつまくなしって語感がいい。息付く暇なく喋るみたいな意味らしく、一言鳴いて消えていったこれまでの私のブログ経歴からすると真反対の意味だけども、名前に先行してもらおうと思う。

よろしくおねがいします。