投げ銭とギブアンドテイク

最近の趣味はエデン界隈の人達のポルカ投げ銭することにになりつつある。

ポルカの本来の用途はイマイチわからないのだけど、おそらく何かしかのイベントを行うための小規模なクラウドファンディングを目的に作られたシステムだと思う。とはいえ、エデン界隈ではイベント以外の私的な活動のためにポルカを募る場合が多いのだけど、みかけたら出来るだけ投げ銭をするようにしている。貧乏生活が長く意地汚い私は、はじめ300円くらいでも抵抗があったのだけど、今は何も考えないでポイと投げられるようになった。

はじめは単にえらいてんちょうさん(@eraitencho)のまねをしているだけだったのだが、改めて考えてみると、私は昔から「喜捨」という行為に憧れがあったように思う。(これが喜捨なのかは謎だけども、気分的にはそう思っている)

 

喜捨を初めて知ったのは、子供の頃に見た百科事典の一枚の写真だ。誰かの帽子の中にみんなが寄って集って金を押し込む、という構図の写真だった。みんな何だかとても楽しそうな顔をしていたのが妙に記憶に残った。なんでこの人たちはお金を捨てているのに楽しそうなのか聞いてみたかったが、私の身近にはそうした人達を見たことがない。私の知らない、遠い国の人たちだった。(ちなみに私がこの百科事典で覚えているのは、この喜捨の写真と、戦争、妖怪、蛾の項目だけだ)

私にも個人的に投げ銭をする機会は何度もあった。都心部をウロウロしていると、物乞いしている人をまれに見かける。私が彼らに何もできなかったのは、何故か気恥ずかしさみたいなもののほうが優ってしまうからだ。可哀想で哀れむ対象だから施しをしている、みたいな感じが、なんだか偉そうで。しかしネットだとワンクリックで投げられるし、そもそもエデン界隈ではみんな気軽に楽しそうに投げ銭をしているので、私も心置きなく投げ銭ができる。楽しそうでないと、なかなか投げ銭も難しい。

 

で、ずっと投げ銭(気分的には喜捨)を続けていたんだけど、色々気づいたことがある。

まず、全く施しという気分にはならないということだ。寄付とか募金とかは少なからず善意というか、「いいことしたなあ」という気分が湧いてくるんだけど、別に湧いてこない。ただ私が現状人より少しお金を持っていているようなので、他に欲しい人に多少渡す、というだけだ。徳みたいなものがピローンと上がるかなあと期待したものの、別に上がっていないと思う。

 この理由を暫く考えていたんだけど、要するに、自分の隣人が自分よりモノを持っておらず、欲しいといっているのであれば、その人に自分のモノをスライドさせるのは、同じ価値同士のモノを交換するのと同じくらい当たり前のことだ、ということはないだろうか。そういう仮説が浮かんだ。

 

突然だが、私が知人から聞いた、イスラーム共同体が強く残る地域の調査をしていた人の話をしよう。現地の子供がその調査を行う日本人に対して、ずっとお金をくれとせびってついてくる(もっとも、子供に限らず現地のあらゆる人が金をせびってくるらしい)。あまりにしつこいので、ある日、その人は少し意地悪をして、今日自分はお金がなくて餓死しそう、君のお金をくれないか、という芝居を子供に打ったのである。子供はちょっと悩んだあと、自分の持っていた金を渡した。その人は驚いて、いや貰えないよと言ったけども、子供も譲らない。

普通に考えれば日本人が財力ある立場なのは火を見るよりも明らかだし、子供もそれが何となくわかるから一瞬躊躇したのだろう。でも子供はあげた。お金がなくて困っている、くれないかと言っている人には、その正体が何であろうとあげる。私はそれを聞いて「ほー、教育の成果ってすごいなーえらいなー」とだけ感心したんだけども、曲がりなりに実践してみると、どうも教育に伴う慣習ではなくて、そもそも人と人との関係の捉え方が違うのではないか、という気がしてきた。 

というのも、投げ銭(気分的な喜捨)を繰り返していると、「不足している人に自分のものの一部をあげる」、あるいは「余裕のあるほうが余裕のない方の荷物を背負う」という行為を、目に見える金銭のやり取り以外にも自然と意識するようになってきたのである。たとえば、ちょっと理にかなわない扱いを受けて怒りみたいなのが湧いてきても、「あ、この人私より今いっぱいいっぱいなんだな。じゃあいいや、今日は私が余裕あるから、その「いっぱいいっぱい」をちょっともらっちゃいましょ」と思うようになった。そして怒りもすっと治る。主観的に余裕のあるほうが折れればいい。たとえあなたが何者でも。

 

私は人と人との結びつきは、基本的に交換、ギブアンドテイクしかないと思っていた。だから常にギブしなければ、テイクを受けなければ、結びつきは絶たれる。「お互い様」ができなければ終わりだ。これが家族になると多少の甘えみたいなのが出てきて、執行猶予も許されるらしい。あとは愛だの哀だの気まぐれなお気持ちが発動して、そのたびにお涙頂戴、というわけだ。世界はそういう風に回っていると思っていたので、私は人にプリーズギブミーといえない人間になってしまった。どうにも自分には、何もギブできそうなものがないから。そんなんだからテイクも面倒くさい。モノや金のやり取りならまだしも、目に見えないとなるともうお手上げで、気づいたら色々なものをギブされているらしいが、テイクできないまま床に転がり落ちる。相手は怒る。ギブもテイクもうまくできない私は、自分を薄情か、あるいは、よくない人間か、はたまた何も持ち合わせていない、足りない人間だと思っていた。

しかしどうやらそうではない、と思っていいような気がしてきた。半径1メートル内の隣の人が重そうなものを持っていて、自分に余力があったら少し持ってあげたい。そしてそこに気持ちはなくていい。相手が辛いといっていれば、額面通り受け止める。足りないといっていれば、額面通り受け止める。そして自分の持ち物を確認して、足りない方に足るほうが渡す。それは個人の高尚な取り組みではなくて、ただ、それだけなのだ。ここにはギブアンドテイクもなく、お互い行く道が別れた時も、分け与えたものを回収することもない。その場その場で荷物が重い物の荷物を軽いほうが一部分背負うのだ。当たり前のことで、でもそうすると、きぶんがよくなる。気持ちがどうやら、後からついてくる。

 

私は特定の宗教に属しているわけではないので、こうした心境がその宗教の意図に基づいたものかはわからない。そもそもそうした意図もないような気もする。ただあの写真の人たちは、喜捨をすることで、気分が良くなることを知っていたから、あんなに楽しそうだったんじゃないかと思う。そしてそこには悲壮感や同情もない。そういうコミュニケーションがある気がした。

 

まあそういうわけで、テクノロジーの進化によって半径1メートルが近くなり(意味不明だけどそういうことだ)、私みたいな人でも気軽に投げ銭(気分的には喜捨)ができるようになったので、皆さんやってみてね、というお話でした。おしまい。